32、精神科医 愛を語る① 無償の愛とは

治療

「やれ科学だ」、「やれエビデンス(証拠)だ」とよく聞くけれども、私に言わせると愛という概念のない精神医学の方こそ、ニセ科学です。
(これは、現場に携わっている医療・福祉関係者に愛がないと言っているわけではないので、誤解ないようお願いします。)

愛とは妄想の対局にある人間関係性で、感謝、許し、いたわり、尊敬など、他者と共存・共生できる考えや行動を指します。そして、それを当たり前にできる人間性が必要です。

妄想は ”自分や他人を傷つける考えや行動" を指します。たとえば、憎しみや嫉妬、嘲笑、いじめ、不平、不満、他責、自責、自己卑下、希死念慮などがあります。 現実かどうかで判断するのではありません。 参考記事:妄想について どのように妄想に陥ってしまうのか?

と、愛について説明していきたいところですが、私を知っている人達から「お前が愛を語るな」という声が やんややんや聴こえてくる気がしますので、趣向を変えて ”愛を知らない人間が、愛を見上げて、愛を語る”というサブタイトルで説明していきたいと思います。

「愛はない」と思っていた時

S君談

前にも記事(思考を拡張させる)で書きましたが、当時の私は「あなたのためを思っている」という言葉は偽善だと思っていました。親からも「お前のため」と言われたこともありましたが、その結果がこのザマだと思っていたので、愛は偽善だと思っていました。

大学3年生か4年生の頃、寮で友達数人と だべっていたのですが、その時 ”愛はあるのか、ないのか”の議論になりました。一緒にいた友達全員が「愛はある」と発言するのを聞いて、私はムキになってしまい、「愛なんかねえよ!愛は偽善だ!」「愛があるんだったら、証拠見せろよ!」と怒鳴ってしまいました。
そしたら友達たちはみんな黙りこんでしまい、その姿を見て私は「ほら、見たことか」「何の反論もできまい」と勝ち誇った気でいました。

愛は見えない人には見えない。

「愛はある」と知った時

S君談

私が”愛はある”と知ったのは、医者になって3年目の頃です。きっかけはドストエフスキーの小説、カラマーゾフの兄弟を読んで知りました。

初めてカラマーゾフの兄弟を目にしたのは、大学4年生の頃です。おじいさん(賢者という意味で)と呼ばれていた友達がいたのですが、俗世間とは距離を取って隠居でもしているかのような雰囲気でしたが、勉強をすると大してやってないのにいい成績を取ってしまう、一を聞いて十を知るような奴でした。その友達がカラマーゾフの兄弟を読んでいて、どういう本を読んでいるのか聞いたら「これは傑作だ」と絶賛していました。その時は難しそうな本を読んでいるなと思っただけでした。

次にカラマーゾフの兄弟を目にしたのは、研修医2年目の時です。同じ研修医で、おじいさんと似たような雰囲気の人がいたのです。この人は研修医なのに、病院でカラマーゾフの兄弟を片手に持っていて、やはり「これは傑作だ」と絶賛していました。賢者2人が傑作と言っている本を読まない訳にはいかないと思い、研修医が終了して少し落ち着いた時期に、読んでみました。本当に傑作でした。私はこの本を読んで”愛はある”ということを知りました。

今までないと思っていたものが あると知った時どうなるか。私にとって、”愛はある”と知ることは、自分の中には愛がない、空っぽだということを思い知ることになりました。人を愛せる人間になりたい。でもどうやって人を愛せばいいのか分からない、そういった感覚でした。

その頃の現実世界の話になります。私はもてる方ではありませんが、医者になって少しはお付き合いしてくれる女性もいました。ただ私には好きという感覚が分からず、付き合っていても孤独感があり、結局別れることになりました。

当時の結婚観ですが、結婚とは売春婦 兼 家政婦と契約するようなもの、それでは単に雇えばいいだけなので ステータスでも追加して結婚相手を見つけようかという感じでした。そして相手も、自分が医者だから結婚を考えるのだろう、自分が医者をできなくなったら捨てられるんだろうと思っていました。その時もし結婚していたら、逆に被害妄想や嫉妬妄想でDV男になっていたと思います。 (大変傲慢な考え方で気分を害された方がいたらすみません。その頃の価値観を分かりやすく伝えるために、無理矢理言語化しました。)

“愛はある“と知った時、自分には人を愛する力がない、自分が女性と付き合うと必ず相手を傷つけてしまう、自分には異性と付き合う資格がない、ということがはっきり理解できました。「人を愛せる人間になりたい」「でもどうやって人を愛せばいいのか分からない」そんな思いを抱きました。

愛する力がないと、人愛せない。

無償の愛とは

愛を説明するのに、無償の愛という表現がよく使われます。見返りを求めずに相手のために尽くす気持ちや行為をいいますが、この説明は分かりにくいです。

分かりやすく言うと、”本当に優しい人は自分が優しくしていることに気付いていない” ということだと思います。だから、見返りを求めないし、やってあげてるといった自己犠牲感もないんです。強い妄想に病識がないように、強い愛にも病識がないのです。

でも、これから愛を実践しようと思っている人に、それを無自覚にやれと言うのは、無理ゲーだって思いますよね。次にどうすればいいか考えてみます。

最後に問題を出します。どちらの答えがいいでしょう。
あなたは他人を愛せていますか?
A:はい、愛せてます。
B:いいえ、愛せてません。

あなたの考えていることは妄想ですか?
A:はい、妄想です。
B:いいえ、妄想ではありません。

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