査読への感想と今後の方針|現代精神医学の問題点(診断基準と病態理解の断層)

paper-rejected 雑談

査読コメントをもらってから、徐々に整理ができてきたので、感想と今後の方針を書きたいと思います。
査読コメント(PDF)

まず大前提として、査読していただいた先生は、私の事を評価してくれています。読めば読むほどそう感じます。その上で、論文として採択されるためにはどうすればいいかを指導してくれています。

査読は基本ボランテイアであり、教授クラスの先生が忙しい中、時間を作って、どこの馬の骨とも知らない医者の論文を読んでくれています。本当にありがたいことです。

そこを踏まえて、思ったことを書いてみたいと思います。

著者の考え方は、単一の視点のみから理論が組み立てられていく傾向があるようにみえます。妄想を「自他を傷つける人間関係性」として再定義するのであれば、パーソナリティ症(特に反社会性および境界PD)も妄想性の疾患ということになるはずですが、これでは「妄想」という用語の通常の用法から大きく逸脱してしまいます。

著者は誇大妄想も、他人へのいたわりを欠いているという点で、他人を傷つけるものであるとしていますが、誇大妄想(血統妄想であれ被愛妄想であれ)を持つ当事者はしばしば二重見当識の中で生きており,自他を傷つけることとは程遠いように思われます。

うつ病の当事者の大半は「存在の危機」にあるかもしれませんが,だからといって、「存在の危機」にある人間がみなうつ病であることにはならず、統合失調症であれアディクションであれ、多くの精神疾患の当事者が「存在の危機」にあるでしょうし、また「存在の危機」にあっても精神疾患にならない人もいるでしょう。そのように考えると,うつ病を「存在の危機」として再定義することにも無理があります。

ここに関しては、私の主張・仮説が、査読していただいた先生に十分に伝わらなかったと思っています。既に概念の定義がある方には、もう少し慎重に説明する必要があると思いました。それよりも、一番の問題は以下の段落にあると思いました。

現代精神医学に対する著者の不満は、用語の定義や疾患の診断基準が、当事者の経験に沿っていないために、治療関係を築くためには役に立たず、かえってそれを損なってしまうことさえありうるという点にあるように思われます。そのような不満は、決して理解できないものではありません。けれども、当事者の体験から得られる疾患の「本質」は多様であり、「うつ病」を例にとっても、ある人にとっては絶望感が,別の人にとっては無価値感や実存の危機が、また別の人にとっては精神運動制止が本質であるように感じられるかもしれません。

その結果,本質を基準として病態を定義しようとすれば,多くの論者が「うつ病」という用語に異なる定義を与えることになってしまいます。そのような状態では,多くの人が独自の定義によって「うつ病」の研究を行うために、多くの研究が報告されても、結果を検証したり統合したりすることが出来ず、それでは精神医学という研究領域自体が信頼に値しないことになってしまいます。そのため,本質論はいったん脇に置いて、症候学的な見地から用語を定義し、診断基準に関する合意を形成したのであり、その結果,エビデンスの蓄積や統合が可能となりました。

一方で,当事者の主観的な経験をどのように理解し、その理解をどのように治療に反映させるのかという課題に、私たちが今日も直面し続けているのは事実です。けれども、だからといってここで再び当事者の経験をもとにして概念を自由に再定義してしまえば、すべては振出しに戻ってしまうでしょう。そのようなわけで,用語や疾患の定義と,当事者の体験の内在的な理解とは、区別して考えなければならないのです。

自由に言葉の定義を変えるなということですが、私に言わせると、症状を説明している言葉の不正確さの方が問題だと思います。

元来、精神医学はドイツ精神病理学から出発しましたが、その後、アメリカが主導するDSM分類などの操作的診断が主流となっていきました。ドイツ精神医学が大切にしていた「病態理解」からアメリカ精神医学が優先する「基準」「分類」「スタンダード」へと軸足が移っていったのです。その結果、当事者の体験や理解から遠のき、精神医学の発展を阻害している側面もあると思います。

査読してくれた先生は診断や研究の共有がしやすくなったことを指摘していますが、間違った病態理解だったらどうなるのでしょうか? エビデンスの蓄積といっても、病態理解がずれていれば、その土台の上に乗っかっているエビデンスって、砂上の楼閣ではないの?と思ってしまいます。

アメリカ精神医学の「スタンダード」が病態を正確に反映しているのであれば問題なかったのですが、近年では、その限界も精神医学の内部で議論されるようになってきています。

本論文は,著者が個人的な経験から学んだことを敷衍する試みであるようにみえます。個人的な経験から得られた仮説を出発点にするのはよいのですが、これを学術的な研究にするためには、この仮説をさまざまな視点に立って批判的に検討したり、過去のさまざまな知見と比較したり、より多くの実例に適用して一般化可能性を検証したりして、より普遍的で検証可能あるいは討議可能なものにしていかなければなりません。

これはその通りで、誰もが好き勝手に独自の理論を言えてしまうことになりますから(本当は、それでもいいのかもしれませんが)。でも精神医学での検証は非常に難しいと思いました。たとえば私は、「妄想を現実かどうかではなく、自他を傷つける人間関係性」としましたが、これを確認するのは難しいでしょう。私も、被害妄想の前に他人を嘲笑し傷付けていたことが問題だったと気付いたのは、10年以上経ってからのことでした。また、今ではブログで精神病について語っていますが、少し前までは自分の精神病のことは誰にも言わず墓場まで持って行くつもりでいました。

そんな自分の醜い部分・恥ずかしい部分に、気付かないことは多いし、気付いても言いたくないのが普通です。それを無理やり聞き出そうとするのも問題があります。そういった訳で、患者さんの無意識まで含めた心理を確認・検証するのはほぼ不可能です。

本来精神医学は頭の中で起こっていることがもっとも大切であるはずです。しかし現代の精神医学は、無意識のもの、患者さんが語らないものは、存在しないものとして扱うしかないのです。そのため、現代精神医学と、心理学・精神分析・精神病理学との間には、断層ができているのです。

精神疾患当事者の主観的経験については、近年では多数の質的研究の結果が蓄積されるようになりました(たとえばRitunnano R (2022) Lancet Psychiatry)。精神病的病態に関する診断横断的な枠組みを提案したいのであれば、古典的な精神病理学から近年のHiTOP研究まで膨大な文献に言及する必要があるでしょう。

私の論文を読んで、「こういう論文があるよ」、「今はこのような研究もあるよ」、とアドバイスできるのは、さすが博識な先生だと思いました。できれば指導者はいた方がいいですね。

本論文は、著者自身が被害/攻撃関係から共生関係へと回心した経験を背景としており、ある種の当事者研究としての価値はあるかもしれませんが、それを学術論文の域にまで高める作業については、きわめて不十分と言わざるを得ません。

妄想の回復過程に関する記述も、どのような患者を対象とするどのような治療経験から導いたものであるのか記載されていません。自身の経験をもとにさまざまな精神医学的病態を内在的に理解するモデルを提示しても、それが現実のさまざまな当事者のうちどの程度まで適用可能であるのかについては、検証されていません。
以上のような理由により。本論文は本誌に掲載できる学術論文の水準に達していないと判断いたします。

査読者は、著者が今後,多くの人と対話したり、古今東西の専門家の知見を吸収したりしながら、個人的体験から得られた貴重な知恵を、開かれた心と柔軟な知性をもって育てていかれることを祈っています。

私の主張を、「貴重な知恵」とまで言ってくださっており、大変ありがたいのですが、「それを育てていくことを祈っています」という、「ここからがスタート」みたいなコメントを読んで、もう人生終盤だと思っていた私は、クラっとめまいがしました。

いずれにせよ結論として、査読してくれた先生の言う検証性や一般化・普遍化は、私の主張・仮説に関しては難しいと判断しました。今回の助言は参考にさせていただきますが、自分の進む方向と学会誌が求める内容が違うと感じました。それよりも、無意識や心理学、精神病理学に基づく理論的な論文を受け入れる学術誌に投稿した方が、勝算があると思いました。

それと、今回の投稿では精神病体系を語るみたいな、壮大なテーマを長々と語ってしまいました。無名の開業医がそのような理論を一度に提示しても受け入れられるのは難しいでしょう(もっと早く気づけよ)。次はテーマを小さく区切り、過去の精神病理学の文献も踏まえながら、もう少し慎重に、そして控えめに主張しようと思いました。今回の投稿で、いろいろなことを学べました。