以前ブログ(精神病は治るのか?患者視点で見る回復のプロセスと治療の原動力 )で、「自分も治っているわけではないから、治療のゴールは分からない」と書きました。
ただ、実は漠然としたイメージはあります。今日はそれを書いてみようと思います。
本当に治ってしまったら、逆にこういうことは書けなくなるかもしれないと思ったので、書けるうちに書いておこうと思いました。
愛について(補足)
これまで記事の中で「愛」について語ったことがありますが、これは道徳として捉えないでください。
道徳として捉えると、精神分析的には、自分の無意識を抑圧してしまうことになります。
妄想があるのは仕方ないくらいに考えた方がいいと思います。
その上で「どちらの方向に進みたいか」という選択の問題です。
どちらを選んでも、それなりに大変ではありますが。
私の考えでは、妄想も愛も、どちらも無意識の中にあります。
その時の状況の要請に応じて、自然に漏れ出てくる思考や習慣という感じです。
言い換えると、無意識の中に
- 妄想の土台
- 愛の土台
がある、というイメージです。
愛とはなにか
愛はよく「感謝」「いたわり」「許し」「尊敬」といった形で語られます。
しかしそれは、そのときたまたまそういう形をとっただけにすぎません。
場合によっては、怒りとして表現されることもあるかもしれません。
ちなみに、妄想は現実に一致しているかどうかではなく、「自分や他人を傷つける考えや行動」のことを言います。妄想の例として、憎しみや嫉妬、嘲笑、いじめ、不平、不満、他責、自責、自己卑下、希死念慮などがあります。これも元々無意識に妄想の土台があり、状況の要請でこのような形で表現されたというだけです。
そして無意識にそれらの土台があるということは、
「愛そう」「人に優しくしよう」と思っているうちは、まだまだ愛ではないという点です。意識的な行動は出発点として必要ですが、それが最終形ではありません。それが無意識の中に定着し、疑いようのないほど当たり前になって、意識にも昇らないくらいになって、はじめて愛と言えるんだと思います。
だからこそ、本当に優しい人は自分が優しいことに気づいておらず、
- 自己犠牲感
- 自己誇示
がありません。
勘違いの愛:妄想
少し身も蓋もない話をします。
無意識の人間関係性の土台が「妄想型」の人は、感謝や許し、いたわりを真似しても、
結局は「こんなにがんばっているのに、・・・」みたいな感じで
- 自己犠牲感・被害感
- 見返りの気持ち
が出てしまい、妄想に回収されてしまいます。
だからといって、諦めてしまっては、無意識に愛が定着しません。
どうすればよいかは、前の記事に書いていますので、そちらを参考にしてください。
精神科医が語る「愛」と認知行動療法|強力な治療法の実践
要約すると、「人を愛せる人間になりたい」と願いながら、他人のためにできることを小さくていいので、自分で思考を立ち上げて考え、自己犠牲感が出ない範囲で行うこと。治癒などの見返りを求めず、焦らず一歩ずつやることです。詳しくは上の記事を読んでください。
愛と妄想の扱い方
無意識にある妄想は「意識化していく」ことが重要です。意識化すると妄想が弱まるのです。
一方で、愛は逆に無意識のままであることが大切です。
愛を意識化してしまうと、無意識の自律性を損ない、結果愛も弱まってしまいます。
「自分は愛せる人間だ」と思ってしまうと、それは愛ではなくなってしまいます。
だから周囲の人も、「よくできたね」と褒めすぎない方がいい。
そうした評価は、愛を意識化してしまうからです。
妄想は意識化し、愛は無意識のままだから、
本来誰もが、人を愛せるように願いながら歩んでいくのが基本姿勢になります。
ただし、愛がないからといって、自分を卑下する必要はまったくありません。
自己卑下は多くの場合、それは妄想として生じているものです。誰もあなたを責めたり、非難したりしていません。
もし「自分には愛がある、お前には愛がない」といった態度で言ってくる人がいたら、その時点で、すでに妄想に強く支配されているのだと思います。「自分は上で、お前は下だ」といって見下していますから。
一緒に精神病の沼につかっていてもいいのですが、できれば、相手にせず、まっすぐ、自分の道を一歩ずつ進んでいってください。
治療のゴール(私のイメージ)
それで最後にどうなっていくかでしたね。
私の考えだと、妄想を意識化して変容させ、愛として無意識に定着させるということになります。
だから、これは「愛を獲得した」という感覚ではありません。どちらかというと、
・「感謝できるようになった」ではなく「感謝できる環境が与えられる」
・「他者をいたわれるようになった」というより「他者をいたわれる環境が与えられる」という感覚が近いと思います。
感謝やいたわりがあたりまえとなり、無意識が愛を基調とする状態になり、そうなると愛という自覚そのものも薄れてくると思います。
本当に優しい人には、そもそも「愛」という概念すらないのだと思います。
言い換えると、妄想があるからこそ、愛を認識できるのかもしれません。
その時の精神状態
そしてその時の精神状態は、支配的だった思考自体が、精神の表舞台から退いていき、精神の透明度が高くなるのではないかと思っています。
他者に対する警戒は自然に弱まり、他者からの評価も気にならなくなっていきます。そうして自分を守るための思考や、愛を志向するための思考も必要なくなる状態です。
直感や感受性が前面に出て、思考は必要なときにだけ、より自由に使えるものになる。
そのとき使われる思考は、祈りや遊び、あるいは芸術のようなものになるんじゃないかと思っています。
うつや不安も、「苦しさ」ではなく、深い寂しさとして感じられるようになるのかもしれません。
最後に
これが、私の思い描く治療のゴールです。
とはいえ、こうしてブログで愛を語っているようでは、まだまだ道半ばですね。
