日本語は回りくどい言語なのか
国語はもともと不得意な科目だったこともあり、昔は、日本語はなんて回りくどい言語なんだろうと思っていました。
日本語の特徴:構造
具体的には、
-述語が最後に来るため、肯定か否定かも最後まで聞かないと分からないところ。
-さらに、最後まで言い切らずに主張を曖昧にすることもできる。
-主語も省略されることがあり、誰の意見なのか分かりにくい。
コミュニケーションが苦手なのは、日本語のせいなのかと思っていました。
たとえば
「私は・・・とは考えない」と言う場面でも、
-主語を省いて「(普通は)・・・とは考えない」みたいに誰の主張かをぼかしたり、
-最後の述語の部分で「私は・・・とは考えないかも…」と曖昧にしたり、
-「私は・・・とは考えないんですが…。」と判断を相手に委ねたりすることもできます。
英語との違い
その点、英語は主語があり、述語が早くに来るため、日本語のように文末で主張を大きく揺らすことはしにくい構造になっています。
I don’t think that・・・ と、自分の立場をまず明確に示さないと、次の内容に進みにくい構造です。
そう考えると、日本語は他の言語より劣っているのではないかと思っていました。
日本語の特徴:敬語
さらに、日本語の影響でコミュニケーションが苦手になっているのではないかと思った理由の一つが、敬語です。尊敬語や謙譲語があり、特に目上の人に対しては言いたいことを言いにくくする仕組みなのではと疑っていました。
日本語は無意識に近い言語なのか
でも、最近になって、少し考えが変わってきました。
日本語は実は無意識に近い言語なんじゃないかと。
(一応言語化はするので、無意識の言語ではありませんが)
結論を急がない構造
無意識には自他の区別がありません。そのため、主語がなくても文章が成立する日本語の特徴は、無意識の在り方に近いとも考えられます。自分の意見なのか他者の意見なのかが曖昧なまま文章が成り立ち、相手や周囲の雰囲気によって結論を変えたり曖昧にしたり、聞き手に判断を委ねられたりもできます。いずれも、結論(意識化)を急がないという特徴に繋がります。半分無意識に近い形で思考を熟成させ、最後に結論を出す(意識化する)ことができるという構造です。
日本語の曖昧さと余白
また、「何となく」といった曖昧さや、「沈黙」という余白も表現の一部として機能しています。皮肉や含みを持たせた表現など、一つの言葉に複数の意味が重なることも少なくありません。つまり日本語は、無意識を説明的に言語化するのではなく、無意識に近い状態のまま表現することができる言語とも言えるのかもしれません。
擬態語・擬音語と無意識
その他に、日本語の特徴をよく表しているのが、擬態語や擬音語です。
たとえば「ひやひや」「シーーン」「ガーン」「ガツン」「もやもや」といった擬態語を思い浮かべてください。無意識の理解は、一瞬ですべてを把握するといった理解の仕方ですから、これらの擬態語には、温度感や音量、圧、響き、重さ、落下感、不透明感などが感覚・感情と入り混じって、ひと言で伝わってきます。それに比べて「不安です」「気分が沈みます」といった説明的な表現は、意識側に近い言葉なのでしょうか、伝わる情報量は少なく感じます。
また、「しとしと」「ざーざー」といった擬音語も、単なる音の描写にとどまらず、雰囲気や内面の状態にまで広がって感じられます。
こうした特徴から、日本語は無意識を抑え込む言語ではなく、無意識の力をそのまま働かせやすい言語なのではないかと思います。
日本語の危険性と可能性
一方で、これは見方を変えれば、お互いが影響を受けやすい言語と言えるのかもしれません。周囲の空気に流されやすいといわれる日本人の傾向も、日本語のこうした特徴と無関係ではない可能性があります。
そう考えると、日本語は使い方によっては影響力の強い言語とも言えるでしょう。ネガティブな感情を乗せて発した言葉は、自分自身や周囲にそれが大きく影響する可能性があります。制御を失えば、妄想的な方向へ傾き、精神的な不安定さにつながります。一方で無意識の力は、創造性や直感、感受性として人を生かす方向にも働かせることもできます。日本語は、無意識の力を「抑えない」代わりに、暴走も止めにくい言語です。
尊敬語とか謙譲語も、日本語にはそういった危険な側面があるから、安全装置としてタガをはめたんじゃないでしょうか。みなさんも、日本語での言霊や思考にはくれぐれも気を付けてください。
私は言語学の専門ではありませんが、精神科医としての一つの視点から書いてみました。
